日々の出来事や訪問した海外、読んだ本などに関する感想を日記調で綴っています。

  • 起業するという選択肢について

    不安定な金融情勢、そして先行き不透明な雇用情勢。かつてのように、ただいい大学を出て、いい会社に就職するというレールが、本当にベストな選択肢なのか?そう疑問に感じている方も少なくないのではないか。実を言うと、私もその一人であった。

    著名な投資家であり著述家でもあるロバート・キヨサキ氏の書籍に触発され、サラリーマン生活を送る傍ら、副業を真剣に考えたり、不動産投資に挑戦したり、そして起業という道も模索した時期があった。

    「起業は十回挑戦して九回は失敗する」。これは、起業の厳しさを端的に示す言葉として、多くの人の心に突き刺さるかもしれない。確かに、新規事業の立ち上げは、想像を絶する困難と試練の連続である。市場のニーズを捉えきれず、資金繰りに窮し、志半ばで撤退を余儀なくされるケースも少なくない。しかし、注目すべきはその後に続く事実である。「たった一回の成功で、十回の失敗を遥かに上回るリターンを得ることができる」。このことは、起業が秘める爆発的な可能性を示唆している。

    そして今、起業を取り巻く環境は、数年前と比較しても目覚ましい変化を遂げている。政府や自治体によるスタートアップ支援策は以前にも増して充実し、起業家育成プログラムも活況を呈している。また、ベンチャーキャピタルからの資金調達の機会も増加傾向にあり、革新的なアイデアを持つスタートアップにとっては、追い風が吹いていると言える状況である。「リスクは無い」とまでは言えないが、かつての、起業=一か八かの賭け、というイメージに比べれば、はるかに挑戦しやすい土壌が整いつつあるのは間違いない。

    ここで、少し異なる角度から数字で比較してみよう。例えば、多くの人が夢を見る宝くじで一億円を手にする確率は、天文学的な数字、なんと二千万分の一と言われている。一方、スタートアップで事業を成功させる確率は、十分の一と仮定してみる。そして、もしあなたの会社が数年後に十億円でEXIT(株式売却などによる投資回収)できたとする。単純な確率で比較すれば、起業で成功する確率は宝くじの二百万倍、そして得られるリターンは宝くじの十倍にもなる。もちろん、これはあくまで単純な計算であり、実際には様々な要素が絡み合うが、こうして比較してみると、いかに起業という選択肢が、宝くじに夢を託すよりも、はるかに現実的で効率的なのかが見えてくるのではないだろうか。

    もちろん、繰り返しになるが、起業は決して安易な道ではない。市場調査、 顧客開発、事業計画の策定、資金調達、人材確保、そして何よりも事業を継続するためのたゆまぬ努力が必要である。多くの困難や予期せぬ壁が、 起業家の前に立ちはだかるであろう。しかし、それらの困難を一つ一つ乗り越え、事業を成長させていく過程で得られる経験と成長は、何物にも代えがたい財産となる。そして、その先には、経済的な成功はもちろんのこと、自身のビジョンを形にし、社会に貢献するという、計り知れない達成感が待っている。

    世界に目を向けると、中東のイスラエルなどは、生き残るための戦略としてかなりの数の国民が起業という道を選択するという話を聞いたことがある。金融の世界をリードしてきた民族が、生き残るために今度は自らの手で新たな価値を生み出す起業に、より一層の力を注いでいるのである。

    安定志向が強く叫ばれる現代社会において、あえて「スタートアップ企業を立ち上げる」という、一見すると不安定に見えるかもしれないが、実は無限の可能性に満ちた選択肢を真剣に考えてみるのはいかがでであろうか。既成概念にとらわれず、自らの手で未来を切り拓く。それは、困難な道ではあるが、それに見合うだけの大きなリターンが待っているはずだ。

  • 経済的に裕福になるための考え方について

    経済的に豊かになりたいと願わない人はいないだろう。しかし、実際にそれを手にするのは、ほんの一握りの人たちに過ぎない。なぜなのか?理由は簡単である。豊かになるためには、そのための知識が必要だからである。そして、残念ながら、その知識は学校では教えてもらえず、多くの場合は他人からも教えてもらえない。ロバート・キヨサキによると、そうした知識は親から子へ、家庭の中で受け継がれるものなのだという。例えば、順調な家業を代々受け継いでいるような家庭、トランプ一家などが典型的な例だろう。

    では、そうした知識を与えられなかった者、家庭に経済的な知識資産がない者は、どうすれば良いのだろうか?答えは一つ。失敗を恐れずに、自ら行動を起こし、何かに挑戦するしかない。

    しかし、ここでいくつかの重要な注意点がある。安易に仮想通貨や過剰なローンを組んだ不動産投資、リスクの高いデイトレード、あるいは他人が勧めるマルチレベルマーケティングなどの儲け話には決して乗ってはいけない。他人が作った土俵で後から参入する者は、例外なく養分として搾取される運命にある。

    また、最初から大きな金額を投じたり、過度なリスクを背負うような大きな賭けに出てはならない。それは、暗闇の中で、どこにゴールがあるのか、あるいは落とし穴があるのかもわからない状況で、頼りない行灯の灯りだけを頼りに進むようなものだ。大きく飛び込んだ先に穴があれば、再起不能になりかねない。まずは慎重に足元を照らしながら進み、もし間違った方向に進んでいると感じたら、すぐに方向転換(ピボット)を行う。そして、再び前進する。このサイクルを高速で繰り返すことが肝心だ。時間が経てば、安定した企業に就職し、そこそこの給与に満足してしまった友人たちとは比較にならないほどの知識資産が、あなたの中に蓄積されているだろう。

    この挑戦は、できるだけ若いうちに始めるべきだ。早く始めれば始めるほど、このサイクルを多く回すことができる。

    さらに、最初から投資家を目指すのも得策とは言えない。ホリエモンが言うように、最も効率の良い投資対象は自分自身だ。まずは自分に投資し、学び、個人事業や副業で生活の基盤(ライスワーク)を確立することから始めるべきだ。ここで少し意識しておきたいのは、可能であれば、このライスワークをスタートアップのように始めることである。そうすることで、最初は小さな副業だったとしても、徐々にスケールさせ、将来的にはベンチャーキャピタルなどから資金調達(エクイティ投資)を受けられるような規模のビジネスへと成長させる可能性もある。

    挑戦しないことのリスクは大きい。それは、知識資産が増えることなく、他人に搾取されることを甘んじて受け入れることに等しい。経済的に豊かになれないだけでなく、貴重な自分の時間を他人に捧げる行為は、私は社会的な自殺行為だと思っている。

    私たちは、檻の中で与えられる自由よりも、荒波にもまれながらも自由に大海を悠々と泳ぐことを目指すべきではないだろうか。イスラエルなどは、国を挙げて民族の存続のために多くの国民が起業を選択していると聞く。日本も、もっと起業の機運が盛り上がり、多くの人が自らの手で未来を切り開く気概を持つべきだと私は思う。

  • デ・ハビラント・コメットの事故の記事を読んで私が得た教訓について

    デ・ハビラント・コメットと聞いてピンとくる人はもうほとんどいないであろう。かつてイギリスで一世を風靡した航空機である。この機体は全金属製、当時はまだ少なかったジェットエンジン搭載と、時代の最先端をゆく旅客機であった。

    デビュー当初は高い人気を誇ったコメットだが、その後、相次いで空中爆発事故を起こすことになる。当時のチャーチル首相が、事故原因の徹底的な究明を指示したという逸話が残っているほど、社会的な衝撃は大きかった。

    事故原因を特定するために、技術者たちは前例のない検証方法を採用した。それは、実機を巨大な水槽に沈め、飛行中の機体にかかるであろう圧力の変化を人工的に再現するというものだった。この実験の結果、地上と高高度の気圧差によって機体の金属に疲労が蓄積し、それが原因で空中分解に至ったことが判明した。それまで考慮されていなかった金属疲労という概念が、航空機の設計において重要な要素であることを示したのだ。

    この事故によって、コメットを製造したデ・ハビラント社は、ボーイングなどの後発メーカーに市場シェアを奪われ、最終的には他社に吸収されることになった。しかし、コメットの悲劇は、航空業界に金属疲労に対する理解と、フェールセーフ設計という安全思想の重要性を深く認識させるという、重要な教訓を残した。

    この事故の記事から私が得た教訓は、何か大きな事を成し遂げようとする場合、事前の検証がいかに重要であるか、ということだ。それは航空機の製造に限らず、大規模な行事の企画、新しい製品の開発、あるいは危険を伴う移動手段の確立など、様々な分野に共通して言える。

    特に、なんとなく表面的なテストだけを行った場合、本番になって初めて予期せぬ問題が顕在化する可能性がある。そうなってからでは、多くの場合、事態の収拾は困難を極める。取り返しのつかない損失につながることも少なくない。

    したがって、テストにおいては、経済的な合理性も考慮しつつ、可能な限り現実に近い状況を模擬することが不可欠だ。例えば、イベントであればリハーサルを重ね、様々な状況を想定したシミュレーションを行う。製品開発であれば、実際の使用環境に近い条件下での耐久テストや負荷テストを徹底的に行う。危険な移動手段であれば、より現実に近い途中の経路をシミュレートしておく必要がある。

    「まさかこんなことが起こるとは思わなかった」という事態を防ぐためには、想像力を働かせ、あらゆる可能性を考慮した上で、「より現実に近い環境でテストを行う」こと。これが私のポリシーであり、現在様々な場面で実践している教訓である。

  • 解決型と共感型のコミュニケーションについて

    ほとんど自分の恥を晒すような記事ではあるが、言語化しておいて方が良いレアな経験だと考えたのでブログとして書き留めることにした。

    かなり昔の話になるが、ある芸術系の大学に通う女性と付き合っていたことがある。彼女は、幼い頃に他人から暴力を受けた経験があるらしく、そのことが原因で気が強い性格になったと話していた。実際、彼女との会話では、突如としてキレだして電話をブチ切りしたり、私のアドバイスを頭ごなしに否定したり、強圧的な態度を取られることが少なくなかった。

    そんな中、ある時、彼女から電話で、同じ学部の先輩がしつこく言い寄ってきて困っているという相談を受けた。一つ上の男性から、半ばストーカーのようなアプローチを受けているらしいとのことだった。

    数十年経った今なら理解できるのだが、もしそのストーカー行為が本当に問題であれば、警察に相談するのが筋である。警察に相談せずに恋人に話す時点で、彼女は私の反応を見たかったか、私をコントロールしようとしていたか、あるいはただ話を聞いてほしかったかのいずれかだったのだろう。しかし当時の私は、彼女の取り乱した様子から、これは一大事だと感じてしまったのだ。

    ある時、電話で彼女から「その先輩が今から家に来ると言われた」と泣きじゃくりながら連絡があった。私はついに緊急事態が発生したと思い込み、遠距離だったにもかかわらず、新幹線に乗って彼女のもとへ駆けつけた。しかし、彼女は何事もなかったかのようにあっけらかんとしており、それどころか、予告なしに突然訪れたことを責められてしまった。

    これはほんの一例に過ぎないが、そんなこんなでこのようなすれ違いが頻繁に起こり、結局、彼女とは別れることになってしまった。彼女の行動があまりにも理解できなかった私は、相談に乗ってくれるカウンセラーを探し出し、この出来事を相談してみることにした。

    カウンセラーによると、一部の女性には、男性の気を引くために、半ば演技のような狂言ともとれる言動(今回のように、警察には相談しないのにストーカー被害を訴えるなど、緊急事態を演出して相手の注意を自分に向けさせる)をする人がいるとのことだった。さらに、そのような人には、ただ話を聞いて共感してあげるだけで気持ちが落ち着くことが多いので、とにかく傾聴することが大切だというアドバイスも受けた。今にして思えば、彼女はおそらく、自分のわがままを私にぶつけてみて私の反応を見たかったのだろう。

    またこの時、私は初めて、人と人とのコミュニケーションには「解決型」と「共感型」の二つのタイプがあることを知った。それにしても、こんなにも辛い経験をしなければ理解できなかった共感型のコミュニケーションとは、一体何なのだろうと、悲しい気持ちになったのを覚えている。

    私は、おそらく解決型は左脳由来、共感型は右脳由来の活動に起因するコミュニケーションのやり方なのではないかと推測している。学校教育で論理的な思考ばかりを重視していると、どうしても左脳の活動ばかりが注目されがちだ。そのため、共感型のコミュニケーションを家庭や学校で学ぶ機会のないまま大人になってしまう人が多く、それが人間関係におけるすれ違いや悲劇を生む一因になっているのではないかと考えている。

    この経験を通して、共感型という新しいコミュニケーションのタイプを発見できたこと、そして、相手が言葉や態度で示す表面的な意味と、その裏に隠された本当の気持ちがあまりにもかけ離れているケースを体験できたことは、辛い出来事ではあったものの、私にとって学びとなった。

    それ以来、他人とコミュニケーションを取る際には、前後の会話の流れや状況から、解決型の話し方をすべきか、それともただ相手に寄り添い共感すべきかを、慎重に判断しながら言葉を選ぶようになった。共感する場合は、可能な限り相手と同じ気持ちになれるように想像力を働かせ、適切な相槌を打つことが重要だ。これらは「傾聴技法」としてある程度体系化されていたりもする。相手の気持ちを理解することの重要性は、人間が感情を持つ生き物であり、共感を示すことが、人と人との結びつきを強くするからに他ならない。

    しかし、どうしても考えてしまうのは、どうして人は辛い経験をしなければ、共感型のコミュニケーションを学ぶことができないのだろうか、ということだ。辛い経験をしたことがなければ、辛い経験をした相手に心から共感してあげることは難しいのだろうか?人の心、共感、そして人間関係というものの複雑さ、難しさに、今、改めて思いを馳せている。もし、この文章を読んでいるあなたが、人間関係で悩みを抱えているのなら、この経験が少しでもあなたの問題の解決にお役に立てるのであれば望外の喜びである。

  • 過去に訪れた12ヶ国14箇所の海外に関する備忘録

    前職で、幸運なことにの様々な場所に行かせてもらえ、合計12カ国14箇所を回る機会があった。その時に現地で感じたことを備忘録として書き留めておきたい。メモ書き程度の走り書きのような備忘録なのでご容赦願います。

    まずは米国のハワイ。戦艦アリゾナは、本物の戦艦が見える深さに沈んでいて、その上にブリッジ状に回廊が設けられており、厳粛な雰囲気であった。また、ダイヤモンドブリッジも訪れた。クレーター型の山だが、中央から見ると意外に周囲の山は低い。近くに瀟洒な住宅街があり、通りを歩いていると家と家の間からビーチが見えるのが印象的だった。もうしばらく歩くとスーパーがあり、駐車場で男性が1人屋台でステーキを売っていた。購入するとライスも付いてきて、「アメリカ人にステーキとライスの組み合わせの良さがわかるのか!?」と驚いた記憶がある。ワイキキビーチでも泳いでみたのだが、沖の方で足を付くと、下がコンクリートになっていて、後で知ったのだがワイキキビーチそのものが人口のビーチらしく、興醒めしたのを覚えている。ワイキキビーチの近くのコンビニでアルコールでも買って飲もうかと思ったら店員から「法律で禁止されているからダメ」と言われ、この時初めて日本以外の国では路上でのアルコールが禁止されていることが多いことを知った。他の同僚はセスナを操縦できるツアーに参加したりしていて、自分も行けばよかったなどと後悔したりもした。また、他の同僚はレストランで高木ブーに遭遇したようだ。

    次はメキシコのマンサニージョだ。このメキシコは別記事「メキシコのマンサニージョで爆発的に英語が喋れるようになった出来事について」に詳しく書いた。

    次に訪れたのはパナマだ。パナマ運河はYouTubeの通り、水位が上下していて見応えがある。水門から水門への移動は、船の推進力ではなく、運河の両脇にあるレールの上を走る牽引車からのワイヤーで左右から引っ張り前進する形式だった。これは「曳船用機関車」というらしい。パナマの街中ではフロントガラスに「エヴァンゲリオン」と書かれたジープが駐車場に止まっているのが印象的だった。パナマの街中の人々は、自分が日本人だとわかると「東郷平八郎」や「イチロー」だとか彼らが知っている日本人の名前を叫ぶ人たちがいた。こんな辺境の国でも日本のことが知られているのが印象的だった。

    次は米国はノーフォーク。ここは街中は煉瓦造りの建物や道路が非常に多い。とある建物の前で立っていると、近くにいた米国人が、確か「どこからきたのか?」みたいなたわいもない話を話しかけてきた。驚いたのが、彼はどうやら奥さんがストリッパーで、目の前の建物で今その仕事をしているので、終わるのを待っているんだとあっけらかんと答えたことだ。彼はなぜか自分の帽子についている龍の模様が描かれたピンをくれた。どうやらベトナムで第3水陸両用部隊とかいう海兵隊の部隊に所属していたそうで、その時の部隊章らしい。そんなも大切なものを自分が貰ってしまって良かったのだろうかと今にして思ってしまっている。

    次はイギリスのポーツマス。噂のフィッシュ&チップスも食べたが、別に不味くはなかった。どのお店の店員さんも笑顔で民度が高く、住み心地の良さそうな国だという印象だ。HMS Victoryも見に行き、船内で当時の船員が食べていたというクッキーも買って食べてみたりした。

    次はドイツのハンブルク。ここはビールとソーセージと魚料理がとてもおいしかった。学生時代ドイツ語をとっていたので、滞在中は片言のドイツ語で乗り切った。ドイツ語は英語と単語が似ているので、使用する単語はドイツ語だが、文法は英語という滅茶苦茶な力技で乗り切った。しかし、今覚えているのは一つだけ。「ツァーレン・ビッテ(お勘定をお願いします)」だ。また別の同僚はハンブルクの有名な歓楽街に集団で行ったらしく、地元紙に写真付きで第一面に「日本の皆さんようこそ〇〇〇〇へ(〇〇〇〇は風俗街の名前。レーパーバーンとかだったかもしれない。)」と掲載されてしまっていた。日本の恥である。

    次はロシアのサンクトペテルブルグ。観光ガイドの人が盛んに「ピョートル大帝」を連呼する。どうやらロシア人はこのピョートル大帝にかなりの誇りを持っているらしい。別の同僚はロシア人にヒューミントをかけられそうになったらしく、かなりしつこく足止めされてチームの集合時に間に合わず、別の同僚にかなり詰められていた。いまだにそういうことを平気でするロシア人がいるのが恐ろしい。おそらく共産圏を訪問したらどの国でもそういうことをやられる可能性はあるのだろう。

    次はフランスのブレスト。街中に日本の漫画専門店があるのが驚き。フランスの郵便ポストは黄色い。肉が食べたくなってレストランに入ってステーキを注文するが、英語が通じないため仕方なく紙ナプキンに牛がフォークを持ってステーキを刺している絵を書いたら本当にステーキを持ってきてくれた。フランスでフレンチの本場だからどの食堂も料理が美味しいのかと思っていたがそんなことはなく、普通の味だった。南部の田舎町でフリーマーケットをやっていて、いろいろ古い味のある骨董品を売っていて買って帰りたかったのだが、荷物は作れないので断念したのが残念だった。

    次はマルタのバレッタ。基本的にここは薄いクリーム色の大きなブロックで建物や道路が作られているため、かなり異界感、別世界観を強く感じた。この記事で紹介した海外の中で最も、再び訪れたい地域だ。

    次はトルコのイスタンブール。ここでは例のごとくトルコアイスの店主にお約束で弄ばれた。アイスの味は覚えていない。とにかく印象的だったのが、よってくるトルコ人の目がみなハゲタカの目だったことだ。口では優しく「観光案内します」とか「美味しいレストラン紹介します」とか言っていたが、目が真剣でまるで殺人鬼のような目つきでこちらを見てくる。トルコより貧しい国にも何回か行ったことがあるし、そもそもトルコはそんなに貧しい国ではないと思っていたのだが、とにかく現地人の目つきは怖かった。ブルーモスクは荘厳な雰囲気だった。生まれて初めてここでアダナケバブとかいう名前の辛いケバブを食べた。

    次はエジプトのポートサイド。エジプトは赤道や海に近いので暑い印象だが、湿度が低いため、意外に蒸し暑さは感じなかった。物乞いっぽい少女がポケットティッシュを1ドルで買ってくれとうるさかったので買ってしまった。当時、Webメールはまだ種類が少なく、自分はHotmailを使用していたのだが、ある時日本に連絡を取りたくなり、街中でネカフェを探し出してブラウザでこのHotmailが使えて感動した記憶がある。コンビニみたいなお店でミネラルウォーターを買ったのだが、かなり酷い下痢になってしまった。どうやらこの地域は水は日本とは違い硬水のようで、人によってはお腹が緩くなりやすいそうだ。

    次はインドのムンバイ。エレファンタ島のシヴァ神の石像も見に行った。日本だと車がクラクションを鳴らすのは危険が迫った時だけだが、ムンバイの街中のタクシーはそうではなく、彼らは景気付けにクラクションを鳴らす。20秒ごとには警笛を鳴らしているイメージだ。誰かが鳴らしたら鳴らす、対向車が鳴らしたら鳴らす、後ろの車が鳴らしたら鳴らすといったイメージだ。まるでDJか何かのようだ。別の同僚はインドは街中であちこちに普通に人の夕ヒ体が転がっているのを見て夕ヒ生観が変わったと言っていたが、自分は街中でそれ(夕ヒ体)を目にすることはなかった。

    次はカンボジアのシアヌークビル。行った時はちょうど雨季であり、街中は20cm近く水没していて、車が水飛沫を上げながら走っていた。この街ではタクシーはいわゆるバイクタクシーが主流で、一日借り切っても大した値段ではないので、観光の際は一緒に行動した同僚と数台のバイクタクシーを借り切って街中を観光して回った。バイクタクシーを借りる際、ホテル入り口を出ると、敷地の向こうでバイクタクシーの群れが一斉にみな手を上げてこっちに来いと言わんばかりに手招きしているのがまるでゲームのワンシーンのようで印象的だった。

    最後は米国のニューポート。ロードアイランド州だ。ここはBoston国際空港に降りてからバスでプロビデンスを経由して向かった。漁業の街で、クラムチャウダーなどが名産らしい。ホエールズとかいうクラフトビールが美味しかった。休日にプロビデンスまで同僚と出かけて初めてロブスターを食べた。またアムトラックを利用してNYまで行き、セントラルパークやトランプタワー、ツインタワー、エンパイアステートビルなどを見て回った。

    以上、12ヶ国14箇所の海外渡航記でした。ここまでお読みいただきありがとうございます。

  • メキシコのマンサニージョで爆発的に英語が喋れるようになった出来事について

    ある時、メキシコはマンサニージョに訪れる機会があった。今でこそメキシコの治安は悪いと言われているが、当時はそんな知識はなく、また街を歩いてみても治安が悪そうな兆候に遭遇することはなかった。

    街を歩くと、どの商店も原色のペンキを使った素朴な、それでいて地味ではない海外独特のペイントアートでお店の看板を作っており、異国情緒に溢れていた。(とあるレストランで米を使ったデザートを食したが、とても美味かった。)

    話を戻すと、マンサニージョは港町なのだが、近くにカジキのモニュメントがあり、これはGoogleEarthでも見ることができる。その近くに「海軍博物館」なるものがあり、同僚と見学に行くことになった。そこにあった展示物は、なぜかイソギンチャクなどの深海の生物を撮影した写真が多かった。

    なぜ海軍博物館にそのような深海の生物の写真が展示されているのかとても不思議だったのだが、私は「ひょっとしてメキシコ海軍は潜水艦を保有していて、その潜水艦で撮影したものなのかもしれない」と考えた。そもそもの前提として、(失礼な話だが)自分はメキシコ海軍が潜水艦を持っているとは思っていなかったので、展示員にメキシコ海軍はが潜水艦を何隻保有しているのか聞いてみることにした。しかし片言の英語しかできなかった私は、隣にいたTOEIC800点の同僚に、そこに立っている軍人に、自分の代わりに英語でこの質問を聞いてくれるよう頼んだ。

    そこで同僚が発した言葉は何と「How many submarine do you have?」だった。私は衝撃を受けた。「保有」の英単語は確か「posses(ポゼス)」だ。てっきり「How many submarines does the Mexican Navy possess?」みたいに難しい英語で聞いてくれるとばかり思っていた。「How many submarine do you have?」なら中学生でも思い浮かびそうな文章だ。しかし、その同僚の英語は見事に通じ、同僚とメキシコ海軍の軍人はその後も引き続き談笑していた。(答えはというと、メキシコ海軍は深海研究用途の調査用潜水艦を1隻か2隻、保有しているとのことだった。)

    私はここで重要な教訓を得た。このような簡単な単語で相手と意思疎通できるのなら、もう英語は怖くない。頭に思い浮かんだ日本語を直接に訳そうとするから無駄に難易度が上がるのであって、今度からは意味が同じで、かつ中学生が話そうな語彙の簡単な日本語にブレイクダウンしてから、それを英語にすればいい。それなら簡単だ。この目論見は当たり、以降の海外渡航では、私は爆発的に英語でのアウトプットができるようになった。この時の同僚には本当に感謝している。

  • 学生時代に大学から自転車で約200kmの旅をした話

    学生時代は学生寮に住んでいて、そこには主に関西圏から来た人間が多かったが、いろんな奴が起居していた。ある日、後輩から誘われ、隣の県まで自転車で旅に出ることとなった。自分は自転車での旅が初めてであったため、不測の事態に備えて道中の旅行計画を立てたり、自転車部の友人に小型テントを借りたりと、着々と準備を進めていった。こうして旅の当日がやってきた。

    学生寮を出発し自転車を漕いでいると、自分が当時いた県はとても田舎だったので、ペダルを漕いだ回数に比例して人工物がなくなっていき、夜になってK峠というところに差し掛かった。そこでテントを張り野宿をすることとなった。私はテントがあるとはいえ、キャンプ場以外の場所で野宿をするのが初めてだったため、風の音が犬の遠吠えに聞こえたり、落ち葉が転がる音が野犬の足音に聞こえたりなどして、普段、普通に生活していては味わえないような原始的な恐怖感を味わった。それは普段、スイッチがオフになっている感情であり、自分にもこんな感情があったのかと改めて感嘆したりもした。

    翌日目が覚め、テントをたたみ、改めて自転車を漕ぎ、行程を進めていった。さらに山深い地域に進入していき、景色も変わっていった。秋なので、ススキがたなびく地域だったり、白川郷でしか見れなそうな朽ち果てた藁葺き屋根の家屋だったり、燃えるような紅葉を傍目に見ながら重いペダルを漕ぐ。まるで行程のしんどさに比例して景色が素晴らしいものになっていくかのようだった。

    途中、村人たちがやっているフリーマーケットでそれはそれは美味しいおにぎりとお茶を買ったり、食堂に立ち寄ったが、まだ開店時間前なのに店主が店を開けてくれたり他人との接触もそれなりにあった。そうこうしているうちに最高標高地点を通過し、残りの行程は下り坂のみとなった。

    当然、下は重力に任せればいいので、調子に乗ってスピードを出しすぎてしまった。ふとした拍子にブレーキングに失敗し、タイヤがロックされてしまい、その状態で数メートル走り続け、当然のことながらタイヤがパンクしてしまった。まだ山中で、街までの残りの距離がかなりあるにも関わらず、自転車が使用不能となってしまったが、そのまま無理やりペダルを漕ぎ、車体をガタガタ言わせながら走り続けた。幸いなことに、1、2時間しないうちにまた小さな集落に辿り着き、自動車修理工場のようなところでパンクを直してもらった。

    その夜はまたO峠というところの近くの橋梁のそばでテントを展開し、一夜を過ごすことになった。翌朝、日の出とともに、トイレに行きたくなり目が覚めた。テントを出ると標高が高いせいか、うっすらと雪を被っており、トイレに行きたくなければ二度と目が覚めなかったのではないかというぐらいとても寒かった。

    さらに帰路を漕いでいると、あと学生寮に帰り着くまで数キロというところで、湖にぶつかった。地図を見て事前に行程を確認したにも関わらず実際の道路は行き止まりで、湖の反対側に寮が見えるにも関わらず、疲れた体を引きずり、大きく遠回りをすることになった。そうこうしているうちにようやくスタート地点でありゴールでもある学生寮に到達した。

    自分の部屋に着いてから、とても不思議なことが起きた。それは全ての人工物が輝いてオーラが見えたことだ。例えばドアノブなどは「なんて握りやすく、ドアを開けやすい位置についているんだろう!」とか「椅子ってなんて座りやすい形にできているんだろう!」などとくだらないことで、一緒に旅をした同級生と思い出話も含めて語り合ったりもした。しかし、この輝きは一瞬で、数時間もすればやがて消えてしまうことになる。しかし、この感じを味わうために自分は自転車で過酷な旅行をしたのだということを強く実感した。

  • 渡部昇一著「人間らしさの構造」を読んだ時の感想

    私はこの本を学生時代に大学の図書館で見つけた。その頃、自分の生き方とか考え方とか方向性などについて相当迷っていて、正しい方向性を求めていた。

    ある日、いつものように大学の図書館のソファーエリアで時間を過ごしていた時、近くの本棚に講談社の青い文庫本、渡部昇一著「人間らしさの構造」が、背表紙をこちらに向け、無造作に倒して置かれているのが目に留まった。その時、なぜだかその本が私に何かを訴えかけているように感じ、手に取って読み始めた。

    表題からすると、古臭い根性論や精神論が書かれているのではないかと想像していたが、実際にページをめくってみると、それは人間の心のあり方を心理学的、哲学的な視点から深く掘り下げた書物であった。

    中でも特に私の心に深く刻まれたのは、心の大切なあり方の一つとして語られていた「かるみ」という言葉だった。著者は、熟練した達人は素人と比較して動きが軽いと指摘し、さらに新幹線を引き合いに出し、機関車と比較して重量、スピード、そして顧客に提供できるサービスの質、あらゆる面において「かるみ」があると表現していた。そして、この「かるみ」こそが人間が目指すべき境地であると説いていた。

    また、本書の中で著者は明確にデフォルト・モード・ネットワークという言葉を用いてはいないものの、まさにそれを示唆するような記述があったと今にして思う。「自分の心の声を聞ける人は少ない」「自分の心の声にしたがって生きる人間を目指すべき」というくだりである。

    デフォルト・モード・ネットワークとは、脳科学において、特別なタスクを実行していない安静時に活発になる脳のネットワークのことである。リラックスした状態にある脳で、ふとした瞬間に重大な閃きが得られることは、アルキメデスが風呂場で浮力の原理を発見したエピソードなどが良い例として挙げられる。これはまさに、典型的なデフォルト・モード・ネットワークが活性化した状態だったと考えられる。

    並行して、この本を手に取った頃、大学の学生寮で先輩から「何か問題にぶつかったら、紙に書き出してみるといい。自分が抱えていた問題が意外と大したことがないことがわかる」というアドバイスを受けた。今思えば、その「紙に書き出す」という行為こそがブレーンストーミングであると同時に、自分の内側にある答えを探る、すなわち自分の心の声を聞こうとする行為そのものだったのだと、数十年経った今、改めて気づかされた。

    かくして、渡部昇一氏の「人間らしさの構造」は、その後の私の人生において、問題に対してブレーンストーミングやデフォルト・モード・ネットワークを通じて「自分の心の声」を聞き出し、問題解決や新たな閃きを得るための重要なきっかけとなったのである。

    自分の心の声を聞けないのは、生きているとは言えないのと同じであると私は考えている。忙しい日々に追われ、外界の情報にばかり気を取られて反応的に生きている人は、週に一度でも良いから時間を作り、今一度、静かに自分自身と向き合う時間を持つべきではないだろうか。

  • 学生時代に部室でタヌキに遭遇した時の話

    学生時代にとある、部活に所属していたのだが、ある日、黄昏たくなって学生寮を抜け出し、コンビニでハンバーガーを買って星を眺めながら夜道を歩き、誰もいない部室に辿り着き1人でベンチでムシャムシャとハンバーガーを食べていた。

    ふと部室の入り口を見ると、一匹のたぬきがじっとこちらを見ていることに気がついた。全く音を立てずに入り口に現れたため、私はハンバーグを食べ終わるまで、その存在に全く気がつくことができなかった。思わず自分はさっきまでハンバーガーを持っていた指先とたぬきを交互に見てしまった。「もう少し早く現れてくれれば、ハンバーガーを分け与えてやれたのに!」と。

    仕方がないので、おそらくハンバーガーの肉汁がついているであろう手をたぬきにしゃぶらせてやろうと思い、「さぁ、好きなだけしゃぶれ!」と言わんばかりにたぬきの方に手を差し伸べた。たぬきはトコトコとこちらに駆け寄り、自分の指を噛んで引っ張っていこうとした。たぬきはどうやら犬歯が無いらしく、噛まれても全く痛くはない。

    しばらくそんな不思議な時間が流れた後、私は立ち上がり、部室の外に出た。すると、さっきのたぬきの家族なのか、小さなたぬきも含めて総勢3、4匹ほどのたぬきが、部室グランド脇の駐輪場に群がってこちらに駆け寄ってきた。これまで何度も部室には来ていたが、そもそも犬猫以外の動物をこの辺りで見かけたこと自体が初めてだ。いや、たぬきと、それもたぬきの群れとこんな近くで近接遭遇すること自体が初めての経験だった。

    一匹しかいないと思っていたたぬきが、実はこんなにもたくさんいたことに、まるで異世界に迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚に包まれた。さっき私の指を引っ張っていこうとしたのは、ひょっとしたら家族のところに餌を持って帰りたかったからなのかもしれない、そんな想像も頭をよぎった。思わぬ出会いに感謝しつつ心の中で餌を与えてやれないことを詫びつつも、私は部室を後にした。

    そしてまた来た時と同じ星空を眺めながら帰途につく。不思議な夜だった。その夜の星空は、心なしかいつもより数が多いように感じられた。あれは、現実だったのだろうか。今でも時折、あの夜の不思議な出会いを思い出すことがある。もし、あの時ハンバーグを分け与えていたら、たぬきともう少し仲良くなれていたのではないかと。